書評家岡崎武志による「上京する文學」が、しんぶん赤旗に連載中。連載とはいっても月一回なのですが、今回の山本周五郎の話は秀逸で、ぜひ記録に取っておきたいということもあって、全文引用。

「自宅周辺の貸本屋でもっとも読まれているのが」山本周五郎。新潮文庫版『季節のない街』解説で、開高健は友人からそう教えられて山周を読み始めたと書く。そして、「貸本屋の無名、無言の読者の眼力を思い知らされる」のだ。
貸本屋の最盛は昭和30年代半ば。全国に3万軒がひしめいていた。たいてい商店街の途中、それに銭湯の隣にあったという。まだテレビが普及していない時代、サラリーマンや工場労働者などが一日の労苦を汗とともに銭湯で落とし、湯上りの体で貸本屋へ。そこでは文学史上の功績や、受賞歴は役に立たない。ただ就寝前の一時を楽しませてくれる本物の作家だけが求められた。
山本周五郎は「曲軒」と自称する頑固でへそ曲がり。昭和18年に「日本婦道記」で直木賞に推挙されたが、これを辞退した。作家なら喉から手が出る直木賞史上、前代未聞、空前絶後のできごとだった。自分には身銭を切って貸本屋で読んでくれる読者がいる。これこそ、山本「曲軒」周五郎の勲章だった。
和田芳恵は、山周の魅力をこう語る。世の大部分のサラリーマンは、自分の才能や能力が認められず禄を食んでいる。「志を得ない人々」が「屈辱の思いに耐えることを教えてくれる」のだ、と。
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山周の作品は没後43年にして、新潮文庫に約50冊が残り、主要作品がほとんど読める。明治36年山梨県北都留郡初狩村生まれ。本名・清水三十六。初狩村が大洪水に遭った40年、父を頼って上京。44年横浜に転居。大正5年、小学校卒業と同時に東京・木挽町の質屋「きねや」に就職した。主人の名前が山本周五郎。このとき、のちの作家・山本周五郎の運命が決まった。大洪水が土砂と一緒に周五郎を横浜へ、東京へ押し流した。災害型上京、というべきか。
「洒落斎(しゃらくさい)」と号した「きねや」主人はまれにみる人格者で、店員の独立後の身の振り方を案じ、勤務外に正則英語学校夜間部と大原簿記学校に通わせた。まるで山本周五郎の作品みたいな人物だった。「赤ひげ診療譚」で保本を導く師「赤ひげ」は、彼がモデルかもしれない。仲間のあいだで回覧の同人誌を作ることを奨励し、才筆の三十六少年をかわいがった。こうして山梨県出身の清水三十六少年はだんだん山本周五郎になっていく。
後年、ペンネームの由来について、懸賞小説応募の返信が、主人の名・山本周五郎で来たため、そのまま筆名としたと語るが、もっと以前からこの名を名乗っていた。これも「曲軒」の照れ隠しだ。周五郎は、「きねや」主人の山本周五郎(ややこしい)の娘に手紙で「ぼくは今でも、おやじを真実の父と信じています」と書き送った。
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「真実の父」に対する戸籍上の父についてはどうか。周五郎は旧制中学への進学を熱望したが家計が許さず、道楽者のくせにけちな実父・逸太郎を嫌悪した。この父の葬式にも欠席し、後になって顔を見せ、香典を全部かっさらって引き上げた。人情小説の第一人者は、親戚の間で非常に評判が悪い。
貧民街でその日暮らしをする人々を描いた『季節のない街』に、貧しい父子の話がある(「プールのある家」)。子どもに残飯の回収をさせ、自分は「プールのある」豪邸に住む夢ばかり語る父親。ほんの七つで食べ物にあたって死んでいく男の子。ダメな父を恨まず世を去る子どもが、ある意味で作者の憧れだったのかもしれない。
「人間なんてかなしいもんだな」と「青べか物語」の一節にある。(岡崎武志・おかざきたけし 書評家 しんぶんあか2011/03/10付)

季節のない街 (新潮文庫)



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